影絵の木の葉 - フリーゲーム/RPG等のレビューと感想

 ゲーム/ニコ生評論家(自称)が文化的なことについて、熱っぽく本音で語っていきます。自分に嘘はつけない。

村上春樹

あるいはパインアメの穴について、村上春樹風の文章で語っているのかもしれない。

(パインアメをコンビニで見かけたので買って、ねじまき鳥クロニクル(書評・感想記事も書きました)を読んでいたらこんなのを書きたくなりました。)




僕はパインアメを舌の上で転がしていた。ざらついた表面から特有の甘味と酸味を感じた。僕と周りの状況がひどく混乱していた十年前。あのときのパインアメとそれは同じ味をしていた。そのことに僕は満足した。

「悪くない」と呟いた端から、言葉が虚空へと吸い込まれていくようだった。部屋に重い沈黙が下りた。やはり電話はかかってこなかった。まだ全ての問題が解決したわけではないのだ。あるいは、問題の解決が新たな問題を生むのかもしれないという気がした。絶望的に複雑な順序を要求する知恵の輪のように。

"甘酸っぱくてジューシー"、そうパッケージの袋に印字されていることが目に入った。このキャッチコピーは誰が考えたのだろう? それを考えたのは少なくとも羊男ではないだろう、と僕は思った。


今は耳を澄まし、ただ待とう。いざという時にダンスを踊れるように。ステップを踏みながら、前に進んでいくために。
あの時すでに、直子は損なわれてしまっていたのかもしれない。あるいは重要な何かを失って、変質してしまっていたのかもしれない。以前のような関係は築けないのだとしても、僕達はあの井戸を再び訪れなければならない。ギイイギイイイイ、ねじまき鳥が世界へと向かって鳴いた。

そのとき僕の口の中のパインアメが溶けて、やがて消えた。その穴の向こうには何が映っていたのだろう?


死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

あるいはパインアメの穴は、黄泉の国へと続いているのかもしれないと僕は思った。


その夜、僕は加納マルタの夢を見た。マルタはピンクのトレンチコートを着ていたが、その下には何もつけていないことが僕にはわかった。腕にはなぜかクミコの腕時計をしていた。電話のベルが鳴り響いている。しかし気に留めずに、マルタは僕の上にまたがってきた。豊かな陰毛の感触が肌を通じて伝わってきた。僕はマルタの中に入って、やがて果てた。非現実的な射精だった。


次の朝。僕は汚れた下着を洗濯かごへ入れ、シャワーを浴びた。ふと、昨晩口にしたパインアメのことを思い出した。その穴を通じて何らかの回路が開いたのかもしれない。あの非現実な射精は、パインアメの穴を通過することによって、あの珍しい苗字の女性の中に到達しているような気がした。もちろん、メタファーとしてのことだが。


(おわり)


あとがき

パイン株式会社さん、村上春樹さん、そして読者の方に先に謝罪しておきます。すみませんでした…。馬鹿にするような意図はなく、私はパインアメも村上文学も好きです。ねじまき鳥クロニクル(書評・感想記事も書きました)面白いし。

でも、ほんとにこんなアクロバティックなシーンが1Q84にあるんだよね…。




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ドストエフスキーでも、マルシア・ガルケスでも村上春樹でもいいのだけど、作品が巨大・複雑であまりにも高度になってくると、読み終えた後振り返っても、「これはこういう物語だ」という自分なりの解釈もできなければ、感想を言語化することも難しいということがあるから。





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 私は、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」という作品は、まさに「人間の様々な行為を目にして混乱し、怯え、あるいは吐き気さえもよおした」人間の「そういう悩みについての記録」の一つであると感じた。(もちろん、「ある芸術作品に関する意見がまちまちであることは、とりもなおさず、その作品が斬新かつ複雑で、生命力に溢れていることを意味している」(オスカー・ワイルド)というような言葉もあるので、それが絶対の解釈だと言うつもりはないですが。)

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konoha
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 この世は生き地獄。争いが果てぬ阿修羅の世界。創作の光だけが救いだ。

 ネットの暗部ばかり見ている病的な人間です。不条理で悪がはびこる世界と社会に対して強い憎しみを抱いています。

 好きなものは、ゲーム全般、ハースストーン、ニコ生、格ゲー界隈の配信、syrup16g、村上春樹、ユング心理学。

学校が嫌いだった。「明るく」「協調」「頑張る」吐き気がする。
その他、詳しいプロフィール

note(創作関連)より、
「オフィスに転がった万全な死体」
『偽りの注射と、廊下の残像』
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