• このエントリーをはてなブックマークに追加

大学生くらいの頃まで、人の名前を呼ぶことに抵抗感があった。人の呼び方には、距離感が表れているから。

「○○さん」「○○くん」「○○!」(名字や下の名前)
「(ニックネーム)」「(ふざけた感じでごまかした呼び方)」
「(他の人と同じ呼び方?それでもどこか不自然さがある)」

最近はそれほどでもない。自信がなかったのかな。

これは興味があるテーマだけど、はっきりとした理由がよくわからない。


(※この記事は以前にnoteに投稿したものをブログにも持ってきています。最近はこっちで書くことが増えてきています)


その理由を考察してみる

私はその場の状況をよく観察し理解して、お互いに得がある(Win-Winな)提案や行動をなるべくしようとする。日常から仕事まで、ほとんど何事についてもそういう性質がある。

逆にいえば、その場の状況がよくわからないうちはあまり動けない。観察と分析、理解にまず集中する。そして10代の頃は状況がよくわからないことも多かった(当たり前だし、今ならよくわかっているということでもないけど)。


相手に一方的に損をさせるような提案や行動を取るのはとても苦手なので、「合理的な判断をしない、価値を生み出さない、単なる自分」には価値がないという根柢の自己判断が腹の中に据えられているのかもしれない。


なるほど、その「根柢の自己判断」があって、かつその場の状況がよくわからなかったことが関係して、昔は人の名前を呼ぶのが苦手だったのかもしれない。それは何らかの行動の入り口(スタートライン)だから。


そして、昔に比べると状況の理解度は上がってきたけど、やっぱり「根柢の自己判断」はあまり変わっていない気がする。


最近、「状況を理解したい」(尋常じゃない情熱と執着がある)という自らの性質が形成された理由が明らかになるような過去のエピソードが、自分の中でよく出てくる。ひと繋ぎになっていくのは気持ちが良い。

関連今日見た印象的な夢と、そこからふと気づいた人生と傷の示唆について


私は「観察力」「理解力」「分析力」以外の能力が低いので、それを常にやっていないと自分は死ぬ、という"警戒"なんだと思う。

思考的なことに適性があって実行は不器用だから、最小限の行動的努力での解決誰でもできるくらいかんたんに問題解決できる方法を発見しないと、うまくいかない。だからこういうことが強い習慣になっているんだと思う。


自分のことなのに、「~だと思う」という表現になるのは、自分の中では当たり前だけど、他の人にとっては当たり前ではないことは意外なくらい気づきにくいものだから。

こういうことは、短所としてとらえるのではなく、長所として活かさないと生きていけないと思っている。

「才能とは、頻繁に繰り返す思考、感情、行動パターンである」

(ギャラップ社による定義、ストレングス・ファインダーという才能診断ツールの運営で有名)


フォロワーの方々には同じような話を何度もして申し訳ないんですが(外への発信もしっかりとしていかないと未来はないと思っている)、ブログにアフィリエイト記事を書くのは苦痛で我慢が必要だったけど、いまみたいなnoteを書くことはほとんど苦労していない。

意識的な努力をさほど必要とせずに、自然と出てくる言葉をキーボードで打ち込むだけでいい。とても楽だし、楽しんでやれている。


こういうことが個性であり、適性であり、上記の定義による才能なんだと思っている。

それによって何らかの価値(何かの役に立ったり、心を動かす等)を生み出して、自分もリターンを受け取れるようになっていければ、理想的な形なんだと思う。

……今はまだその長い道のりの途中。まだはっきりとした像は見えていない。


さらに、人の名前を呼ぶのも苦手だったけど、自分の一人称にも違和感があった

(英語の「I(アイ)」くらいの汎用性のある言葉が、日本語にも欲しい)

これはリアルではもうはっきりと定めることができているけど、ネット上ではまだ自分の一人称に違和感がある。

「性別感」を出したくないというか、「性差」のようなものをオンラインで語ることに強い抵抗感がある。理由はまだよくわからない。


(付け加えて言えば、「男は~~だ」とか「女は~~だ」という性別による特徴の分析にも少し苦手意識がある。

さらに言えば、「○○世代は~~だ」とか「最近の若い人は~~だ」とか「あの時代の人は~~だ」のような、世代別の特徴が語られることにも苦手意識がある。昔からずっとそうだ。

その中に自分はいないからか? あるいはそんな風に自分を理解されたくないのか?)


話を戻すと、もっとプライベートでデリケートなことも書いているのに、ここだけはやりにくさがどうしても拭い去れない。

慎重に行うべき事柄だと自分の心が主張しているので、注視して時間をかけて掘り下げていきたいと思っている。

(これはたぶんnoteを書いていくうえで不利な性質だと思うけど、「そういう生きもの」だと理解してほしい。そして、自分もそう理解されるように書いていかないといけない)


たぶんこの辺りには何かが埋まっていて(宝かゴミかはわからない)、自分が取り組むべき心理的作業で掘り起こせそうな気がしている。

これはドリルのような重機で掘り起こすとすぐ結果にたどり着けても、その間にあったものは粉々になり、失われてしまう。

分析することも理解することも出来なくなる。考古学的な価値のある出土品が損なわれてしまうようなものだ。だから、手作業でやる必要がある。


自己理解と内面の分析シリーズ】(noteへ飛びます)
人生の二つの後悔。その一つは、友人の死の前後の自分の振る舞い。
自分の中での、自己開示度の段階と生きやすさのイメージ
自分を許すことと、他人を許すことは繋がっている。
今日見た印象的な夢と、そこからふと気づいた人生と傷の示唆について

ブログに1000時間書いてわかった! 「作品」に、誰でも気の利いたレビューが出来る5つのコツ!(対象は映画・漫画・小説・ゲームなど)

▼このnoteで少しでも心が動いたら、ぜひnoteツイッターのフォロー、各種SNSでのシェアよろしくお願いします。とても喜びます!



  
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
こちらも合わせてどうぞ

注目の記事

この記事を書いた人

konoha  konoha/コノラスTwitter [つぶやきと更新通知]note [喜怒哀楽に全力な日記]

 「良い作品と出会い、より深く楽しむためのレビュー・批評、そして思い出」を発信しているブロガー。好きなゲーム・音楽・文学などを全力で語る。嫌いな言葉は「明るく」「協調性」「頑張る」。学校が嫌いだった。近頃はnoteで、過去の重い話や好きなことで生きていくための歩みを書いている。

→→その他、詳しいプロフィール  →→初めての方へ。多様なジャンルから、おすすめ記事を29本厳選した。