スポンサーリンク
短いのでたぶん5分くらいで読めます。【第28回】短編小説の集いのお知らせと募集要項(※必読) - 短編小説の集い「のべらっくす」に参加しています。お題に沿って各自で短編小説を書いて、お互いに感想を付けあったりする企画のようです。
今回ははてなブログ以外からも受付しているとのことなので、ライブドアから初参加します。はてなの文化をよく知らないので、何か失礼があったらすみません。
お題は、「桜の季節」。
『桜は、窓の外にだけ咲く』
まず、第1志望の大学に落ちた。
続いて、第2志望の大学に落ちた。
最後に、第3志望の大学に落ちた。
そして、春が来た。来てしまった。
綾子は死体のような目をして、ゴミが散乱した自分の部屋のベッドで横たわっていた。小さめのテーブルの上には、いくつかのカップラーメンの残飯が変な臭いを放っている。コバエがその上を巡回していた。その軌道を目で追う。視線を中空にさ迷わせる。
そうすると、嫌でも本棚の参考書が目に入ってくる。数学……英語……化学……、なぜあのときああしなかったのか、綾子の意識は過去に向く。無限に続く螺旋階段を下りていくかのように、思考がループする。暗闇の中へ。
窓の外では、桜の花びらが一つ、また一つと散っていた。ひらり、ひらりと。厳しい冬を越えてきたというのか。ちょっと前まで冠雪したゴボウみたいな木の枝だったのに。でも今はほんのりと自信に満ちた表情で色付いている。差し込んでくる太陽がまぶしい。
「なんという……」
どうにか気持ちを奮い立たせて、上体を起こす。乱雑に伸びた髪の毛がはらりと視界を塞ぐ。
「そろそろ、切りに行かないと……」
しかし、立ち上がろうとする脚に力が入らない。思わず崩れ落ちそうになる。自らの意志を行使して、筋肉にいくら命令してみても、彼らはどうやらストライキを起こしているようだ。精神と肉体、感情と思考がばらばらに、ちぐはぐになってしまった。高校時代のスポーツテストの成績の、ひどくバランスが悪い六角形を思い出していた。各項目は、シャトルラン、上体起こし、砲丸投げ……、ではなく、数学……英語……化学……。
「またかぁ……」
高校時代はいま思い出すと楽しかった、と綾子は振り返る。当時は勉強ばっかりで、したいこともろくにできなかったし、何が自分のしたいことなのかということすらわからなくなっていたし、理想の受験生を演じなければすぐに横からお説教が飛んでくるし。
その状況で綾子はうまく呼吸が出来なかった。鼻と口から空気を吸い込み、肺が膨らんで、酸素が全身へと行き渡る。二酸化炭素がもと来た道を帰っていく。その過程すらすっきりと行うことができない。細い空気しか吸えない。でも、悪くない3年間だったはず。
高校生の綾子には、2人の同性の友人がいた。部活はやっていなかったが、同じクラスだったり何かの縁で、時間はかかったものの、最終的に女3人のグループが形成されていた。
そして、彼女達は4月から大学生になった。悲喜こもごも、あっただろう。様々な苦難と挫折があっただろう。皆が皆、第1志望の大学に行っているわけではない。しかし、4月からは大学生。次のステージへと着実に進んでいった。
雲間から太陽が顔をのぞかせて、不意に日差しが強くなる。光線が数本、窓を透過して綾子の部屋を照らし出す。空気中のチリが光を帯びる。
「あっ……」
この光の振る舞いはチンダル現象だ。ブラウン運動、コロイド溶液、忘れてはいないか、大丈夫か…。数学……英語……化学……、逃れられそうにない。綾子はカーテンを閉じた。
暗い部屋で、綾子はさらに述懐する。遠い過去のように、他人のような顔をしている自分の思い出たちを。何が楽しかったのだろうか。
一拍置いて、すぐに結論に達する。結局のところ、何気ないあの日常が大切だったのだ。何のことはない話題について、いつもの3人で1時間、2時間と最終帰校時刻のチャイムが鳴っても語り合った。好きなテレビや漫画の話、親の話、クラスの話、先生の話、勉強の話。楽しいことも苦しいことも、分かち合うことが出来た。そんな会話はもう、二度と帰ってこない。
「えっ…」
ふと、印象的な出来事を思い出した。妙に気がかりだったのに、忙しく過ぎていく密度の高い日々の中でいつの間にか忘れていた。
――数か月前、2人の友人・理香と裕梨が、綾子の家に泊まりに来た夜のこと。
理香が風呂から上がって、綾子の部屋に戻ってくる。木目のフローリングの上を歩くその足音は、落ち着いていて小気味よい響きだった。テンポの良い小さな反復。
ドアノブを引いて、広くはない部屋の中が視界に入るや否や、理香は言った。
「あれ? 裕梨は?」
「うん……? そういえば外に出ていったみたいだね」
綾子はベッドの脇のクッションにもたれかかって、うとうとしながら答えた。理香は何か用があるのかどうかは分からないが、外へと出ていった。今度は足音がやや乱れている。
綾子はほんの少しの間だけまた眠りに落ちた。夢現の狭間で、今日はまだ、普段しないような話を二人の友人たちとするのだろうな、年相応に恋の話とかもするのかなと思い描いていた。意識に浮遊する二人の顔と、親密で静かなムード。独特の開かれた空気感の中で、お互いの心にそっと触れて、絆が深まるのかもしれない。あとはベタだけど枕投げしたりとか? ただ、今は少しだけ眠ろう…。
そして、理香の普段とは違う調子の大きな声ですぐに目を覚ました。
「えっ、何してるの!?」
寝ぼけ眼の綾子には、その声の意味がよく掴めない。だがしかし、何か尋常ならざる響きを感じ取ったので、目をこすって、パジャマ姿にカーディガンを羽織って足早に表へと向かった。
「何でタバコなんて吸ってるの? こんな大事な時期に!」
そこで理香は裕梨を咎めていた。裕梨は少し狼狽えつつも、超然とした態度を作り直してこう返答した。
「そういう年頃なんだよ」
用意していた返答、という感じはあまりしなかった。むしろ、とっさに絞り出した、という印象を二人の聴衆にもたらした。
夜の闇に左手のタバコの火が赤く燃えていて、そこがまるで三人の世界の中心になったかのようだった。家の前のひっそりとした木陰で、パジャマ姿の三人が一堂に会していた。しかし予想とは違っていた会話。
綾子は押し黙っていた。タバコ。普段の3人グループには縁の遠い、別世界のものだと思っていた。自分が口にするのをリアルに想像してみたことは皆無と言ってよい。何故? 何が裕梨を駆り立てた? 綾子に責める気持ちはなかったが、裕梨が自分の知っている世界から違う世界へ行ってしまったかのような不安を覚えていた。
対称的に、理香はまず疑問と戸惑いを言葉にした。そしてこう続けた。
「ばれたらまずいよ、どういうつもり?」
裕梨は少しの間、無言で遠くを見ているような眼差しを夜の星空へと放っていた。不思議と理香と綾子は、その様子に見入っていた。
場を沈黙が支配した。しかし、重苦しい沈黙ではなかった。一種の陶酔に近い。
線香花火が最後の光を放ってアスファルトの地面の上に落ちてその役割を終える。それくらいの時間の後、裕梨は柔和な微笑みを浮かべて言った。
「わたしが悪かったよ。このことは見なかったことにしてくれない?」
理香は安心した様子で言った。
「もう……。二度としないでね」
綾子は何一つ言葉を口にすることが出来なかった。まだ裕梨の行動に対して、違いを強く感じて孤独を振り払うことが出来ずにいた。そして、この場で自分だけが浮遊していて、地に足が付いていないかのような感覚を覚えていた。わたしだけが?
(ティロティロリン……)
携帯のメールの受信を知らせる効果音で現実へと引き戻される。
綾子はもう2週間ほど、一度も携帯電話を確認していなかった。メールの受信を知らせるやや場違いなメロディと振動が、何度も部屋に響いていた。彼女達だろうか。しかし、それらを開くことは出来なかった。
断絶。目の前には黒い渓谷。恐る恐る覗いてみても、底は見えない。両端の切り立った岩肌は何者をも寄せ付けない。時折、見覚えのない奇妙な植物が生息していた。視線を上げると、神話の世界のようにどこまでも続く地平線と空と太陽。そして肝心要、救いの吊り橋は壊れて落下してしまったようだ。
その端と端に、私達は別々に立っている。
逆光で、彼女たちの顔は見えなかった。
スポンサーリンク