村上春樹の新作長編小説、『騎士団長殺し』が2017年2月24日に発売

 2017年2月24日に村上春樹の新作長編小説『騎士団長殺し』が発売される。なのでその前に、村上文学とは何かということについて考えてみたい。それにしても、このミステリのような、そしてとても精神分析学的な(フロイトとかユングとか)、このタイトルを目にしたファン達は色々と予想を巡らせているらしい。


村上春樹と批評

 私は村上春樹を愛読している。村上文学は読んでいて「これは自分にとって重要な小説だ」とか「なにかよくわからないけど、すごく面白いし癒される」と感じられるが、その正体が何なのかと問われると「よくわからない」というところが正直な本音だった。

 かと言って熱心に批評本や論文を漁ってみたわけでもない。村上春樹自身が反批評の旗手であることも影響しているのかもしれない(彼は自分の本についての批評は一切読まないと宣言しており、批評とは「馬糞のようなものである」と言っている)。また、私が彼の主要な著作をまだすべて読み終えているわけでもないこともある。例えば『ねじまき鳥クロニクル』とか手元にはあるけどまだ読んでない。
 気が向いたときに批評本に軽く触れてみたり、CiNiiで論文を流し読みしてみたことはあるが、いまいち腑に落ちるものに出会えなかった。しかし表題に挙げた本書『もういちど村上春樹にご用心』は面白かったので、少し取り上げて考えてみたいと思う。また村上文学の批評以外の部分に関しても、憑き物が落ちるような感じがした。

 また、私はこの記事においてバランスよくこの本(内田樹『もういちど村上春樹にご用心』)の全体を紹介するような書評を書きたいとはあまり思っていない。そもそも、本書は複数の切り口(トピック)から(もちろん内田樹の受容の枠組みからなる一貫性はあるが)村上文学を語る短めの文章の集合でなっているのでその試み自体がなかなか難しい。なので、個人的に印象に残った箇所(トラウマとその癒し)について引用しつつ語っていきたい。



トラウマとその「総括」

 本書には「トラウマ」という言葉がたびたび登場する。私はこの「トラウマ」という言葉に妙に引っ掛かるものを感じた。(「父の不在」「語られないことによって語られるもの」等の他のトピックも面白かったけど。)

 内田は村上の初期3部作『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』に対して村上の個人史に即したトラウマ的経験をめぐって小説が書かれていると指摘し、

 必ずしも現実の出来事ではないのだけれど、現実以上にリアルな出来事。心理的な原風景と言ってもよいし、深層構造と言っても良い。ものを考えたり感じたりする時の枠組みそのものを形成したある出来事が存在する。それを書かないと、先へ進めないということがある。それが「トラウマ的経験」です。
 「トラウマ」が問題なのは、傷口が痛むということよりも、その外傷的経験については「語ることができない」という不能そのものが、人格の骨格をなしているということです。奇妙なことですが、私たちが他人がどんな人間であるかを判断するのは、その人がぺらぺらとしゃべることによってではなく、その人が何については語らないか、どのような話題を神経症的に忌避するかなのです(映画やドラマなんかではよく出てきますよね、「お子さんは?」と訊かれるといきなり逆上して人の首を絞めたりするやつ)。
 「トラウマ的経験」とはそのことです。その人にとって生きることの意味(と無意味)はすべてその「語ることのできないトピックをめぐって編成されている。そのせいで、どんな新しい出来事に遭遇しても、どんな未知の入力があっても、「古い傷跡」が作り出す定型的な反応に帰着してしまう。どんな人間に出会っても、どんな言葉を耳にしても、どんなものに触れても、いつも「あの経験」に帰趨的に参照して理解されてしまう。新しいこと、未知のこと、理解できないことが何も起こらない。「すべてが既知である世界」に閉じ込められ、時間が停止する。それがトラウマという病態です。
(『もういちど村上春樹にご用心』、文春文庫、p.35-36)

「トラウマ」に囚われていると、「どんな物語を書いても、同一の定型に帰着してしまう。」といい、作家がローカルな読者圏から世界へと出ていくためにはトラウマから離脱しなければならない。そして、村上は『ノルウェイの森』においてその作業に成功したという。(確かに『ノルウェイの森』は村上作品の中では独特な作品だと思う。)

 例として少し自分の話をすると、私もささやかなながら創作活動をしているのだけど、「どんな物語を書いても、同一の定型に帰着してしまう。」ということには心当たりがある気がする。サリンジャーじゃないけど、私が作った物語では重要な登場人物がストーリーの途中で志半ばの悲しい死を遂げるということが多い。内田の別の指摘の、「意味ありげな固有名詞をよく説明せずに使う」というところにもはっとさせられる部分があった。私の作った物語は、まさに内田のいうトラウマ的なものなんだろうなと思った。そして、有名作家でもそういう人が結構多いとも書かれていた。

 「トラウマ」は語ることが出来ない。それはフロイトやユングが言うような、人の癒しや成長には「無意識的なものの意識化」が必要だということに通じているのかもしれない、と思った。


 さらに『1Q84』に関連する別の箇所で、

 トラウマというのは記憶が「書き換えを拒否する」という病態のことである。ある記憶の断片が、何らかの理由で、同一的なかたちと意味(というよりは無意味)を維持し続け、いかなる改変をも拒否するとき、私たちの精神は機能不全に陥る。トラウマを解除するためには「強い物語の力」が必要である。「同一的なかたちと(無)意味」を死守しようとする記憶の断片を、別のかたち、別の意味のものに「読み替える」力を私たちに補給するのは「強い物語」である。(同上、p.69)

と言い、その強い物語の有力なものが村上文学であり、それが村上文学が「世界的」たらしめた理由の一つであるというふうに読み取れる。

 また、物語は「身体」に浸透していくというような言い方もしていたと思う。要は皆、ひどく傷ついている。そういう時代なのか。そして「強い物語」、村上文学が世界中で必要とされている。それは多言語に翻訳され、まさに今も多くの人に読まれている。

 では、現代の人々は一体、何に傷ついているのだろうか?

威張りたい人に苦しめられる人の前にふっと降りてくるのが村上文学

柴田 内田さんは、他人を評価するときに、自分に対して懐疑をもてるかどうかをかなり大きなポイントにしていますよね。
内田 自分のバカ度、欲望をどれだけ勘定に入れているかっていうことね。だいたいね、「これは絶対にナントカだ」なんてことを言う人ほど、相対的な勝ち負けしか見てないんですよ。「正しいのは俺だ」「こうでなきゃいけない」とか、絶対的なことを声高に言う人ほど、目が向いているのは自分のすぐ近くにいる人間との相対的な勝ち負けなんです。そこで勝つために絶対的な何かをすぐに動員してくる。ここ(至近距離を指す)がじつは主戦場で、これ(聖なる天蓋)はなんだっていいんです。高校生のときは成績が良いかどうかでいいし、大学に入ったらどれくらい革命性があるかでいいし、会社に入ったらどれくらい売り上げが高いかでいい、とにかく常にそのつどのローカルな世界で絶対とされている価値を持ってきて、他人を蹴飛ばしたり威張ったりする。
 相対的な勝ち負けに拘泥する人間がかならず絶対的な価値を持ち出してくるっていう構造は、それに嫌悪感を抱くっていうのもやっぱり同じ。相対的な関係を決するのに絶対を持ってこられちゃうと、負けているほうの人が「そういうのは好きじゃない」っていくら言っても、勝てないんですよね。この仕組みはよくできているんです。神学だってマルクス主義だってしっかりできているし、そのあとの脱構築であろうとフェミニズムであろうと、みんなしっかりできていて、なかなか簡単には攻略できない。一般的な人が「知的階梯みたいなことでそんなに威張らなくてもいいのにな~」と言ってみても、そういう語り口では攻略不能なんです。
 その負けている人たちのフラストレーションはずっとあると僕は思っている。で、そこにふっと降りてくるのが村上文学。我々を現実的な競争の中で差別している、あるいは差別化のために動員されている、"父的なもの"は、本当はないんだよ、って村上さんは言ってる。(同上、p.165-166)

 内田さんが「他人を評価するときに、自分に対して懐疑をもてるかどうかをかなり大きなポイント」にしているというところは、いかにも哲学を専門にしている人らしいなという印象を受ける。
 私もそういう人が好きだけど、それとは正反対の「自分に対する懐疑が薄く、ひたすら自分の強烈な個性を貫き主張し続ける人」も同じくらい好きだな。タイプにもよるかもしれないし、類まれなる才能とセットになるのかもしれないけど。そういう人にしかできない優れた仕事や、そういう人でないと作れない強烈な光を放ち続ける作品というものがあると思う。ゲーテか誰かも似たようなことを言っていた気がするけど、中途半端な人が一番苦手かもしれない。

 本題に戻ると、この内田さんの発言は感覚的によくわかる。ここで言われている「聖なる天蓋」「父的なもの」というのは、社会的なシステム(あるいは秩序)を上から規定し、成員の個々の自由を制限するものというような意味である。
 例えば、キリスト教においては神であり、第三世界においては宗主国の文明であり、マルクス主義においてはブルジョワ・イデオロギーであり、フェミニズムにおいては父権的セクシズム、のようなものである。

 前項の問いの答えは、人々を傷つけているのは、「父的なもの」だろう。

 結局威張りたいだけであって、目の前の相手に対して権力闘争をしかけて、色んなものを持ち出して自分は正しく相手は間違っているのだと主張し、(自分の心を自分で支配できないからその代わりに)相手を支配しようとする人って実にたくさんいるように思う。学校でも会社でもどこでも、一度思い起こしてみてほしい。皆、病んでいて煮えたぎるような不満を抱えている。
 そしてその構造に対して、メタ的な観点を提供するこの文章はとても腑に落ちた。それに対する救いが、村上文学なのだろうか。


 しかし、"父的なもの"は人々を傷つけている一方で、人々が必要とする機能も同時に提供してきた。なのでそれが本当は存在しないとなると、困ったことも生じてくる。
 それについては、つまり"父的なもの"がない、絶対的なものがないという恐怖に対しては、村上文学は、自分の足で実際に歩いた範囲についての「手描き地図」のようなものを提供しているとも言う。

邪悪なものによって損なわれるという経験は「無意味」

 邪悪なものによって損なわれるという経験は私たちにとって日常的な出来事である。しかし、私たちはその経験を必ず「合理化」しようとする。
 愛情のない両親にこづき回されること、ろくでもない教師に罵倒されること、バカで利己的な同級生に虐待されること、欲望と自己愛で充満した異性に収奪されること、愚劣な上司に査定されること、不意に死病に取り憑かれること……数え上げればきりがない。
 だが、そのようなネガティヴな経験を、私たちは必ず「合理化」しようとする。
 これは私たちを高めるための教化的な「試練」であるとか、私たち自身の過誤に対する「懲罰」であるとか、私たちをさらに高度な人間理解に至らせるための「教訓」であるとか、社会制度の不備の「結果」であるとか言いつくろおうとする。
 私たちは自分たちが受けた傷や損害がまったく「無意味」であるという事実を直視できない。
 だから私たちは「システムの欠陥」でも「トラウマ」でも「水子の祟り」でも何でもいいから、自分の身に起きたことは、それなりの因果関係があって生起した「合理的な」出来事であると信じようと望む。
しかし、心を鎮めて考えれば、誰にでも分かることだが、私たちを傷つけ、損なう「邪悪なもの」のほとんどには、ひとかけらの教化的な要素も、懲戒的な要素もない。それらは、何の必然性もなく私たちを訪れ、まるで冗談のように、何の目的もなく、ただ私たちを傷つけ、損なうためだけに私たちを傷つけ、損なうのである。
 村上春樹は、人々が「邪悪なもの」によって無意味に傷つけられ、損なわれる経験を淡々と記述し、そこに「何の意味もない」ことを、繰り返し、執拗に書き続けてきた。(同上、p.282-283)

 上記の「威張りたい人に苦しめられる人の前にふっと降りてくるのが村上文学」の項と合わせてすっと腑に落ちたような感覚がある。私が長年続けてきた闘争にまとめてメタ的な視点を与えて決着をつけた……というとさすがに言い過ぎかもしれないが、見通しや風通しは随分良くなったと感じる。

 「邪悪なもの」によって損なわれることが無意味であることは受け入れがたいかもしれないが、無意味でないとするならば、その「試練」を乗り越えなければならなかったり、その「教訓」を学ばなけらばならなかったり、そのようなことをしなければならなくなる。
 しかし、必ずしもその「合理化」は適切ではない。そこから何かを学び取ろうとしたり、システムの欠陥を改善したりしたとしても、「邪悪なもの」は姿を消さない、きりがない……ということは経験的によくわかる気がする。それはまさしく何の必然性もなく私たちを訪れ、何の目的もなく私たちを傷つける。そしてその「邪悪なもの」を根絶することはおそらく不可能なのだろう。いつの時代も、どんな場所にも悪は存在する。


 そして、おそらく、そのような危機の予感のうちに生きている人間だけが、「世界の善を少しだけ積み増しする」雪かき的な仕事の大切さを知っており、「気分のよいバーで飲む冷たいビールの美味しさ」のうちにかけがえのない快楽を見出すことができるのだと私は思う。(同上、p.285)

 本ブログ的な言い方をすれば、「冬はこたつでゲームをしよう、それが幸福だ」ということだろうか。あと部屋を掃除したりというようなことも大切か。


 以上です。本記事で紹介した『もういちど村上春樹にご用心』は他のトピックも面白かったので(例えば、ご飯を作るシーンについての話で、日常的な料理とはあり物で美味しいものを作るということであり、それは限られた条件の中でベストパフォーマンスを目指すという人生と本質的に同じだ、とか)、ファンの方もそうでない方にもぜひ一読をおすすめしたい。

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 近頃は、ゲーム全般(フリーゲーム、ハースストーン、Steam等)とニコ生、鬱な邦楽ロック、純文学(主に村上春樹)等について書いていることが多いブログです。

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konoha  konohaTwitternote

 この世は生き地獄。争いが果てぬ阿修羅の世界。創作の光だけが救いだ。ネットの暗部ばかり見ている病的な人間です。不条理で悪がはびこる世界と社会に対して強い憎しみを抱いています。 学校が嫌いだった。「明るく」「協調」「頑張る」吐き気がする。 その他、詳しいプロフィール