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キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

 本作『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(私が読んだのは村上春樹訳)執筆当時30歳過ぎのサリンジャーは、16歳の少年・ホールデンが「君」へ語り掛けるという形でつづられる、彼が退学処分を受けた後の数日間の物語を描いたこの作品を通して、何を表現したいと思っていたのだろうか。

「なかんずく君は発見することになるだろう。人間の様々な行為を目にして混乱し、怯え、あるいは吐き気さえももよおしたのは君一人ではないんだということをね。そういう思いを味わったのは、何も君だけじゃないんだ。その事実を知ることによって、君は興奮し、興味をかきたてられるはずだ。とても、とても多くの人が、今君が経験しているのとちょうど同じように、道義的にまた精神的に思い悩んできた。ありがたいことに、彼らのうちのあるものはそういう悩みについての記録をしっかりと残しているんだ。君はそういう人々から学ぶことができる――もし君が望めばということだけどね。同じように、もし君が提供すべき何かができたなら、誰かがいつの日か君からその何かを学ぶことになるだろう。それは美しくも互恵的な仕組みなんだよ。それは教育のみたいなことにとどまらない。それは歴史であり、詩なんだ。」(村上訳、白水社ペーパーバック、321ページより)

 私は、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」という作品は、まさに「人間の様々な行為を目にして混乱し、怯え、あるいは吐き気さえもよおした」人間の「そういう悩みについての記録」の一つであると感じた。(もちろん、「ある芸術作品に関する意見がまちまちであることは、とりもなおさず、その作品が斬新かつ複雑で、生命力に溢れていることを意味している」(オスカー・ワイルド)というような言葉もあるので、それが絶対の解釈だと言うつもりはないですが。)

 本作中には、「インチキ」(英、phony:にせの、いんちきの、うその)という言葉が頻出している。例えば以下の部分(ホールデンの言葉)がそうだ。

もし僕がピアノ・プレイヤーだったら、きっとクローゼットの中にこもって演奏すると思うよ。とにかく演奏が終わって、みんなが気も狂わんばかりにわあわあ拍手をすると、アーニー先生はピアノ椅子に座ったままくるりと振り向いて、すごくインチキくさい謙虚な一礼をした。まるでわたしは最高のピアノ・プレイヤーであると同時に、とびっきり謙虚な人間でもあるんですぜ、みたいな感じでさ。それはすごく嘘っぽい代物だった――つまりとんでもない俗物なんだよ、こいつは。(同上、144ページ。太字の部分は原文では傍点)

この感じ、超分かる。すごく共感するな。謙虚に見せかけたいだけの俗物のインチキで嘘っぽい振る舞い。しかし、周りの人たちは表面しか見ずそれに気づいていないようで、はがゆいんだよな。さらに、ホールデンはこうも言う。
「ところがさ、僕は学校ってやつが大嫌いなんだ。うん、とことん嫌いだ」と僕は言った。「でも学校だけじゃないんだ。すべてについてそうなんだ。僕はすべてのことに我慢できないんだよ。ニューヨークに住むこととかね。タクシーだとか、マディソン・アベニューのバスだとか。後ろのドアから降りてくれって運転手がしょっちゅう怒鳴りまくっているやつのことさ。(略)」(同上、220ページ)

この感じも超分かる。あまりにも分かりすぎてまるで昔の自分のことが書かれているかのように感じる。本作は世界中で稀有なほどの歴史的ベストセラーになっており(wikipedia、ベストセラー本の一覧、2007年までに全世界で6000万部以上の売り上げを記録。現在でも毎年50万部が売れている)、そう感じた人が他にも世界中にたくさんいたのだろうな、と思った。

 以下、読了を前提としたネタバレを含む感想と考察となります。ネタバレによってつまらなくなるようなタイプの作品ではないと思っていますが、一応ご注意のほどを。


個人的経験を交えた感想と考察(ネタバレあり)

「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(ライ麦畑で捕まえて)のタイトルの意味

「でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちから落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。(略)」(同上、293ページ。太字の部分は原文では傍点)

 「ライ麦畑のキャッチャー」を「自分が心からなりたいもの」として妹フィービーに語るホールデンも、「クレイジーな崖っぷち」にかなり接近しているようなので、自分自身を捕まえてほしいという願望も含まれているように感じた。捕まえる側になりたいという発言の裏には、捕まえてほしい(ほしかった)という願望が含まれているように感じる。それを鑑みて、野崎訳では『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルにしたのかもしれない。
 つまり、上記の引用部分はホールデンの心象風景のようなもので、「小さな子どもたち」とは実際の小さな子どもたちではなく、未熟的なもの全ての象徴のようなものだと私は捉えています。「ライ麦畑のキャッチャー」になりたいというのは、言い換えると、本記事の冒頭にて引用した部分に示されているような、「人間の様々な行為を目にして混乱し、怯え、あるいは吐き気さえもよおした」人間の「そういう悩みについての記録」を学んだ彼が、「同じように、もし君が提供すべき何かができたなら、誰かがいつの日か君からその何かを学ぶことになるだろう」という言葉を実現したいという想い(この時点ではホールデン自身でもはっきりとは認識しておらず、上述のような詩的な表現となっている)の先触れとして示唆されているような発言なのだと私は解釈しています。精神分析学が、夢において未来への示唆を読み取るように。研究書や論文には全く目を通していないので、個人的にこう感じたというレベルですが。

私にとってのキャッチャー・イン・ザ・ライ

 私はたぶん、ホールデンが語る「クレイジーな崖っぷち」から飛び降りかけたような若い時代を送ったので、「ライ麦畑のキャッチャー」に捕まえられていたら良かったのかもしれないと述懐する。ロック音楽や優れた文学のような芸術に出会っていなければ死んでいたかもしれない。

 本作を読んでもピンとこなかった人や嫌悪感を覚えたような人(毒のある刺激的な作品なので不思議ではない。万人受けしないと思う。wikipediaにも「文壇からは賛否両論があり、また保守層やピューリタン的な道徳的思想を持った人からは激しい非難を受けた。しかしホールデンと同世代の若者からは圧倒的な人気を誇り(略)」とある)からは「繊細すぎる」とか「子供っぽい」と言われてしまうかもしれないが、子供の頃や若い時代にあまりにも衝撃的な体験を色々とした繊細な人間には、何年たってもそれが心に鮮烈に焼き付いて離れずその影響が人生を通して現れるというようなことがあると思う(「三つ子の魂百まで」だったり、ガンダムの富野由悠季が言う「45歳までは君たちも挽回できる。人間の基本は9歳までの、当時は解決方法が見えなかった欲求で、それからは逃れられない。それが何だったか思いだせ」というような感じにも少し似ているかも)。この感じはおそらく、本作を読んでもピンとこなかった人々には何を言っているのかよくわからないと思うし、理解されないと思う。ちょうどホールデンの話をサリーが理解せず退屈な態度を見せたように。そんなとき私もホールデンと同じようにひどく落胆したものだなぁ。

 私はこのブログの内容を最も伝えたい相手として(もちろん色んな人に読まれればとてもうれしいけど)、ホールデンのように鋭い観察眼(しかも特に負の側面についての)を持っていて、感じやすすぎるために生きづらい人々を想定している。本作中の表現を借りると、自分が出会えなかった「ライ麦畑のキャッチャー」に私もなりたいと思っている(まだまだうまく出来ているとは言えませんが)。なので以前からフリーゲームでも音楽でも小説でもそれ以外でも、そういう目的に寄与する作品を高めの優先順位で取り上げている。

未成熟なもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ

 「未成熟なもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ。」という言葉が後半にて登場する。この言葉がもし前半にて登場していたら、本作に共感する読者であればあるほど、「説教臭い」とか「抵抗感」を持って迎えられることになるのではないかと思う。しかし、後半のあの位置に配置されているのでこの言葉は力を持ち、妙に腑に落ちるように感じられた。
 ユング等の心理学(精神分析)でしばしば提示される、螺旋階段のイメージを連想する。真上からその階段を見ていると(二次元に投射したら円になるような視点)、結局ホールデンはこの物語を経て元の地点に戻ってきたにすぎないというようにも見える。しかし、その実は大いなる前進と成長の階段を上っているというわけだ。
 さらに精神分析学的な言い方を続けると、人はある時期において他者から見て馬鹿げていると思われるような行動を取ることがあると言われる。しかし、それは一見(例えば経済的には)損をしているのかもしれないが、その人の人生の(心の)全体性・統合性の観点から見ると、必要不可欠な経緯であったと捉える事が出来る。心は、本当は何をすべきかということを知っているのだ。

追記(2016/12/12):本書に対する批評を少し読みましたが、私はこの作品を信頼できない語り手の作品だとは思っていません。主人公・ホールデンは「病的である」「休養が必要」だとは思いますが、「狂っている」「統合失調症である」というところまでは行っていないと捉えています。野崎訳と私が読んだ村上訳では結構な差があるようなので、そこらへんも影響しているのかもしれません。






  
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konoha  konoha/コノラスTwitter [つぶやきと更新通知]note [喜怒哀楽に全力な日記]

 「良い作品と出会い、より深く楽しむためのレビュー・批評、そして思い出」を発信しているブロガー。好きなゲーム・音楽・文学などを全力で語る。嫌いな言葉は「明るく」「協調性」「頑張る」。学校が嫌いだった。近頃はnoteで、過去の重い話や好きなことで生きていくための歩みを書いている。

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